余命1年
たぶん来年死ぬ。
正確には"死ぬ"と言っても過言ではないという状況になる。
特異な例ではあるけど、いわゆる"修行"というやつ。なんなら"修行"の語源、全ての"修行"はここに通ずる、This is 修行 マジ修行
働き方改革が叫ばれる時代にもかかわらず"その場"では起きている時間だけでなく寝ている時間も修行。
朝4時起き。
プライバシーは無し。
私物持ち込み禁止。
暖房無し冷房無し。
外出禁止。
肉食うな酒飲むな女遊びすな。
死ぬな いや 死ぬね。
これは死にますよ。生きていたとしてもそこに心は無いだろう。
一応上に書いた不条理な縛りには明確な理由があるらしい
4時起き・肉食うな・酒飲むな
→人間は寝過ぎると余分に"精"を持ってしまう。精を持つことは雑念を生む事につながる
私物持ち込みなし・外出禁止
→自我を削ぎ落とし真の自分を見つめる
暖房なし・冷房なし
意外と理論付けが成されている。「うるせ! そういう決まりなの! つべこべ言うな! 俺たちもやったんだからお前らもやれ!」
くらいに理不尽な事言ってくれたらこっちもブーブー言えるのにしっかりと論じられると上げた拳の行き場に困ってしまう(それでもツッコミポイント沢山あるけどね)
人間ではいけない、俺は超人にならなくてはいけない
そんな処刑を前にして、実際の痛み苦しみを想像しながら過ごす最期の1年。「死ぬ前に最期に何が食べたい?」と言われているような気分をこの1年味わう。
そんな人間としての最期を迎える来年までに何を見るのだろう 何を体験するのだろう